初代ステレオ事業部長 鈴木健の 「私の体験よりの随想」


第3章:ステレオ事業誕生からの道程

1):事業部の卵として電蓄技術課誕生
売り上げが大きくなったら独立させるのが一般。然し私はこれは全く逆で事業を大きく育てるためにこそ、 初めから独立させ、その商品性格に最適の体質を持たせるべきと考えていた(今も変わらず)。
松下経営に入って間もないとき電蓄の一般設計者 だった私だが、思い切って本社に行き、北野専務に次のように申し上げた。
「電蓄事業は、ソフトハードの両者を自ら創作し、提供し、より新しい感動を味わって いただこうとする所謂自らの手でソフトハードをカップルとして駆使し、新しい感動の世界を生み出してゆく事業で、したがって企画、設計、訴求、販売戦略 など独自のものを必要とします。 事業を大きく発展させるには、ラジオと分離すべきではないでしょうか?」と。
専務はその場でラ技より電蓄技術課として分離させるから事業部の卵と思って お前の思うようにやれと即決。驚きと感動と心配の中でしたが決心する。小さい技術課だが将来の事業部の卵を自覚し、宣伝販売戦略など万事に亘り、 具体策をもって超積極的に活動を開始する。


2):技術者確保に大苦労
当時ラジオ工場の一角で電蓄は生産されていたが、一ヶ月のうちほんの数日間で生産完了すほどの数量。未だ売上高も少ないだけに、技術者はいくらも貰えずわずかに 課長を入れ6人でスタート(そのくせ扱い分野はモーター、PU、プレーヤー、スピーカー、各コンポーネント、コンソール電蓄ときわめて広く機種は趣味性も加わり、 当社内では最も多かった)。連日終電車まで全員で懸命に頑張らねば消化できず、私など終電車にも乗り遅れ、郵便貨物電車に乗せてもらったことが何度あったことか。
当時ラジオ技術課は40名、白黒テレビ技術課は60名、機種数は我々の数分の一全く羨ましく見えたものでした。


3):当時電蓄を扱ってくれる店は全く無かった
我々はせめて地方でも、一つの市で一店は扱い店を作るべく、東奔西走しお店、一般ユーザー両面より 体験をベースにした啓蒙活動をするという決死の努力は、次々と実り、わずか数年で急成長。電技に発した芽は忽ちにして製造部に発展、更に生産部に昇格。 続いて事業部に昇格。
当時のビクターを支え、利益を生む最大の拠点に至る。電技という芽から事業部にまで育て上げた所謂生みの苦しみは、 私にとっては感無量の喜びであり、又大変貴重な勉強体験をさせていただいたと今思っております。