K2インターフェース開発
(1)K2インタフェースの開発
◇開発着手の経緯
 K2インタフェースの開発はソフト制作現場からの一通の手紙で始まった。「デジタルは符号が変わらない限り音質は変化しない」と言われていた。 しかし実際には使用する機器により、テープにより、デジタルコピーにより音質が変化する。当時こうしたことを言うこと自体、技術者としてタブーであった。 こうしたソフト制作現場の声も多勢の意見にはかなわず、不可思議なことをいう者として幕が閉じられようとしていた。
 この手紙の差出人は当時ビクタースタジオ技術所属の金井実氏、受取人は総合技術研究所でハードディスクの開発に携わる一人の男に宛てたものであった。 手紙には意見が通らない無念さ、何とかしたい思いがひしひしと綴られていた。音を聞いてみると確かに変化している、完璧なはずのデジタルに何かが起こっている。
 PCMの最大の特徴である「デジタルは符号が変わらない限り音質は変化しない」とする事項が満足されないために起こる種々の問題は、 もはや録音現場では大問題になりかけていた。 何とかしてミキサー達の思いを遂げてやりたい、また技術者としてこの不可思議な現象を解明しておかなければPCMデジタル録音の基本が崩れてしまうと秘かに決意をした。 やがて1週間後、K2インタフェースの原案を描いた一枚のスケッチを持ってスタジオを訪れた。事実上開発がスタートした日である、1985年3月のことである。
◇ソフト部門との交流
 かつて、PCMデジタル録音プロセッサーの開発時にこのような記憶がある。 「音を詰めるには使用する現場に行かないとユーザーに求められる音は詰まらない」こうした思いで測定器を背負って、開発現場を音響技術研究所からビクタースタジオに移した。 スタジオでは1階ロビー横にある応接室を専用で貸して頂き、ここを開発実験室とした。2階以上には録音スタジオがあり申し分のない環境である。
 必要に応じて空いたスタジオにデジタル録音システムを運び、慣れないコンソールを操り試聴を繰返しながら応接室と行き来した。音詰めもだんだん進み、 これ以上詰めるには生音が必要になってきた。生音を録りたくとも手だてはなく、まして本番録音のスタジオに入ることは許されない。 このままでは仕事が進まないと困り果てた。
 「よし怒鳴られに行こう」こう決意すると新宿河田町のフジテレビに足が向いていた。「お願いがありまして来ました。デジタル録音機の開発に生音を録らさせてください」、 「何を録るんだ」、「夜のヒットスタジオです」、「馬鹿ヤロー、あれはうちの看板番組だ、それに生放送だ、実験なんかで何かあったらどうする」やはり怒鳴られたと思った。 沈黙した時間が続き、急に椅子から立ちあがると「俺に付いてこい」と一言いい一番奥にあるグランドスタジオに案内された。おりしも月曜日午後3時を回った頃、 スタジオでは夜の本番に向けてリハーサルが慌ただしくおこなわれていた。番組制作の総責任者に「この男が何か音の実験をしたいと言っている。何かあったら俺が責任をとる。 何でもやらしてやれ」と頼んでくれて、「その代わり世界一の音を創れ」と励ましの言葉をかけてくれた。フジテレビとしては格別のはからいであった。
後ろ姿を見送りながら目頭が無くなったのを覚えている。フジテレビとはかって番組自動キューアップ装置を共同開発した経緯があり、 当時多発していた放送事故を独白の考案システムで皆無にした実績があった。
 真剣に取り組む姿勢があれば社外にも協力者はいる。また仕事には一人で出来ることには 限りがあり、仲間づくり、組織力が仕事を進める上で如何に重要であるかを感じさせられた。 こうして音詰めに取り組んでゆく最中で、青山スタジオの人達とも徐々に交流が進み、ミキシングエンジニア、ディレクターとの親交が深まっていった。
◇未知の歪みの発見
 やがて、K2インタフェースの原案スケッチを基に試作機ができた。ミキサー連が見守る中、待ちに待った音が出た。 何だこの音は!音質向上どころかまるでノイズを付加するエフェクターまがいのものであった。みんなの顔が期待から失望に変わるのを感じた。 これからがデジタルの音質変化の要因解明に向けての挑戦の始まりであった。 この時、この開発がこんなに大変且つ血の滲むような思いをする展開になろうとは思いもしなかった。
 K2インタフェースの構成要素を細部にわたり一つ一つ分析していった。電源からの影響を考慮してすべての電源をバッテリー駆動で実験してみたが結果は同じであった。 デジタル伝送の接続部を疎にするためのENC/DECも試みた。フォトカプラの接合部が近接している影響を考え、ジュースのストローに光ファイバーチューブを入れ、 その端に発光ダイオードとフォトトランジスターを組み合わせて輪ゴムで留めた伝送素子も作ってみた。資金も乏しく満足な部品も買えない、 すべてが工夫してやるしかなかった。この頃、試行錯誤の連続でアイデアを考えては具現化し、実験してはつぶすという日々に暮れていた。 デジタルの音が掴みきれない、何をやっても音が変わる、まるで音の地獄をさまようかのように深みに落ちていった。 回路規模は改良を重ねるうちに何時の間にかベニヤ板大の大きさになっていた。
 逆境下で色々なことが頭を走馬燈のように回って行く。休日、深夜を問わず全力を注ぎ、精神的にも体力的にもすでに限界を超えていた。 「スタジオの調整、雑用は私がやります、どうか考えることだけやってください。」良き相談相手であり共同開発者の金井氏に支えられ、 試聴実験にはチーフミキサーの服部氏が苦労を共にしてくれた。
 K2実験装置はENC/DEC伝送をしているため、ジュースのストローで作った伝送素子の輝きが音楽のレベルに応じて光の強弱を発していた。 何時もは綺麗だなと思いながら眺めていた。やがてハッと脳裏に閃いたものがあった。これだ、何故今まで気が付かなかったのか、 16bitデジタルデータに合わせてストローが音楽を奏でている? デジタルなのにアナログだ!16bitシリアルデータはデジタル信号でありながら波形はアナログであるとすると、デジタル信号の符号情報は同一でも条件、 状態によりアナログ波形は変化する。デジタル信号の中に潜む未知の歪み発見の瞬間であった。
 DACを中心に周辺を完全分離・一定化したつもりが実際にはデジタル信号の符号情報に重畳して入力されていた。 そしてこれを排除するためのまったく新しいサーキット開発への挑戦、一つのブレークスルーがあり「K2インタフェース」が誕生、デジタル録音の音質に対する不満が解消しはじめた。 すでに2年目を迎えようとしていた。
 継続するねばり、探求心こそ発明に欠かせないことだと思った。限られた環境下ですべて工夫してやるしかなかった。 この工夫こそが創造性を生みだし結果へと導いてくれたと感じた。
◇民生機器への応用
 やがてこうした行動が音響技術研究所の井上敏也所長の耳に入ることになる。当時前橋工場の開発責任者であった清水宏紀氏の記述にこうある。 「井上さんから電話をいただいた。K2インタフェースという新しい技術をもった研究者がいる。 ぜひ君が会ってものにしてくれ」これがK2インタフェースの民生機器展開のきっかけである。1987年9月11日に開発発表を行い井上所長に報告に伺ったとき、 実に嬉しそうに会っていただいたのを今のように思いだす。 翌年、CDプレーヤ「XL-Z711」に初搭載されて商品化デビューする。この後、DAC搭載アンプ、DAT、DACユニット‥と商品化が続く。研究所で基本設計をおこない、 それを基に事業部担当者が商品設計に取り組んだ。こうして商品化された各機器は当時商品の売れ行きを最も左右すると言われたステレオ・ベストパイで軒並み1位を勝ちとった。
 差別化技術があれば商品が強くなるのを目のあたりにし、高付加価値差別化技術の重要性を実践で学んだ。 こうした背景には、K2インタフェース技術を生かして世界一の商品を造ろうとする商品設計者の熱意に満ちた努力があり、 これを世に広めようとする関係スタッフの意気込みがあった。
 一方、海外にも先鞭を付けるべく技術論文にまとめて、1989年に西ドイツで開催された第86回AESコンベンションで発表した。 英国の権威あるStudioSound誌が1989年6月号のトップ記事でこの発表内容を掲載してくれたのを見て、この技術は海外でも訴求できると確信した。
◇録音現場からカッティング現場への展開  
 ビクタースタジオにおいては、CD制作に向けたK2総合システムの開発を進めていた。 K2インタフェースの完成後は、録音システムとしてミキシングコンソールの出力と録音された音を比較試聴して、その差を出来る限り少なくする作業に時間を費やした。 スタジオで夜明けまでK2カッティングユニットの音詰めをおこない、 それを持ってディスク事業部のCDカッティングに向かったことも度々である。まさにピストン操業の連続であった。
 迅速にシステムを立ち上げるため、事業部門との強力なコンビネーションを図りながら、録音からカッティングまで部門間にまたがる工程を一貫して眺め、 実験録音を繰り返しながら K2Recording System、K2Edit & Mastering System、K2Cutting System を構築した。
 1991年、K2インタフェースプロセスによる初のCD「パッサージュ/ベルエアプロジェクト (VICJ-58)」を発売する。 業界で初めてCDに高音質化技術クレジットを掲載したK2ロゴ入りCDの誕生である。
 この日「CDから音楽の感動が蘇った、感動を有り難う」と一枚のCDをいただいた。プロデューサー、ミキサーの仲間から一斉に拍手が起こり、感無量で言葉にならなかった。 思えば苦節6年の長い進のりを仲間に助けられながら精一杯やってきた、今それを成し遂げた感激のCDであった。 また、録音、ディスク製造、再生機と音の入り口から出口までK2インタフェースで一貫できた記念すべき日でもあった。
 業界紙を始め、朝日新聞にまで「CD発売から丸10年、メーカー良い音求めメーカーしのぎ」 と紹介された。 CDが普及し当たり前になった時代に、ソフトにおいても高音質を訴求する冠となる差別化技術の重要性を強く感じた。

(2)20bit K2スーパーコーディングの開発
 デジタル信号伝送系での基盤構築後は、符号情報そのもののクオリティアップとかねてから考えていた。当時のCD制作には16bitのA/D変換器が使用されており、 16bitで変換しCDの16bitフォーマットに入れるには精度面で少々無埋があった。またA/D変換器の性能は音質に大きく影響し、市販品では音資面で満足出来るものがなく、 独自のものを開発するしか道はなかった。
 また一方ではCDフオーマットの互換を維持しつつ、更なる高音質化の方法はないかと思案していた。業界がノイズシェーピング、ディザ方式で動こうとしている中、 単に聴き易くするのではなく、情報量を増やして音楽性を向上させ新たな感動を蘇らす手法の開発に挑戦心を抱き、 音楽性の見地から十分検討を重ねて独白のbit down方式「20bit K2スーパーコーディング」を開発した。
 K2インタフェースによるCDを発表した翌年1月にはバラックによる20bitK2実験機による録音を試みた。 この時、本番録音に当たり従来方式の16bitと新たな20bitK2スーパーコーディングによる同時録音の実験を試みた。録音中ピアニストがたまたま鉛筆を床に落とした。 その特の音が16bitだとコロで止まった音が、20bitK2スーパーコーディングだとコロ、コロ…と音が消え入る所まで聴こえた。 K2の威力はすごい、とみんなで大感激したのを覚えている。 この録音はアーチストの圧倒的な支持を受け「SHUFFLE(VICJ-106)」として1992年4月に発売され、ビクター音楽産業の20bit初CDとなった。このCDのクレジットに、 Very Special thankとして名前を入れていただき感激したのを覚えている。こうしたアーチストまでも含めた音質検証ができるのもソフト、ハード連携による強みの実例である。
 これらの録音技術は1993年9月13日に高音質化CD技術「20bitK2スーパーコーディング」 として業界発表した。 翌日の新聞各紙に大きく取り上げられ業界の高音質化路線の先鞭を付けた。 20bitK2スーパーコーディング技術とK2インタフェース(Digital-K2)技術が、現在ビクターエンタテインメントのCDの高音質化基本技術となっている。
 これら一連のK2録音機器の音詰めは、ビクタースタジオの高田英男氏、服部文雄氏、別宮環氏たち、ポップス、クラシック、ジャズの各チーフミキサーとの連携でおこなってきた。 ビクター山中湖スタジオに於いて、泊まり込みで概略の音詰めをおこない、青山スタジオに持ち帰り、 細部の音詰めをおこなって導入を図るパターンが何時の間にか定例的に出来上がっていた。音詰めに夢中になる余り朝を一緒に迎えた事も度々である。 音質の羅針盤でもある音の匠連に導かれながら、デジタル、アナログ回路にメスを入れ制作者が意図する音質へと仕上げてゆく。 ハード、ソフトが連携し一つの目標に向かって協力し合う。ビクターだから出来るお家芸である。

(3)こだわりのxrcd誕生
 CDのさらなる高音質化を目指して、ビクターエンタテインメントの米国現地法人JVC MUSIC INC.とディスク事業部マスタリングセンターが協力して開発商品化したのが xrcd(Extended Resolution Compact Disc)である。
 具体的にはMastering ProcessとManufacturing Processの融合により誕生したもので、マスタリングには必ずオリジナルテープを用い、 音の基準を20bitにおきマスタリングからカッティングまでの工程をすべて20bitで統一したシステムで制作、さらに特別管理されたプレス工程で製造された高音質化CDである。
 これらを作り上げた背景にはここまで拘るかという拘りに拘り抜いた、田口晃プロデューサー、マスクリングの野見山静夫氏たちの努力があったのはいうまでもない。 まさにxrcdは太平洋を股に掛けて生まれ、1996年、ニューヨークで発表、1998年には「Digital-K2」を導入してxrcd2としてロサンゼルスで発表した。 国内導入は1年後の1997年ビクタースタジオで発表会をおこなった。このとき挨拶にたたれた広報担当の藤本正煕氏が、 当社の特徴であるハード/ソフトの連携をとことん強調されたのを今でも覚えている。
 1997年、日経新聞広告シリーズ「新しいビクターを知ろう」でも「CDの高音質追求から生まれたK2テクノロジー」「デジタルメディアのクオリティをぐんと進化させます」 としてハード/ソフトの両面から訴求掲載された。

(4)さらなる高音質化・高画質化への挑戦
◇ハードにおける高音質化  
 CD再生のさらなる高音質化を考えた場合、High-bit、High-Sampling化がある。音楽CDソフトは各社各様の方式で高音質化か進められておりCDの16bit信号から新たにHigh-bit、 High-Sampling信号を生成する場合、余程のことをしない限り音質向上どころか逆に音質劣化を招く恐れがある。 それに色々な音楽ジャンルに適応して間違いなく高音質化を図らなければならない。これらの命題を満足させる方式を考えていると不可能という文字にたどり着きそうになる。
 今までの理論一辺倒から理論に融合したクリエイティブな考え方、つまり音楽信号に着目した解析が必要であると常々考えていた。 技術(理論)に音楽的感性(創造)を融合したらさらなる感動が蘇る。デジタル信号処理にソフト制作で得たノウハウを取り込み、 CD再生のHigh-bit化を目指して開発したのがbit拡張技術「20bitK2プロセシング」(1994年業界発表)、High-Sampling化を目指して開発したのが、 周波数帯域拡張技術「EXTENDED-K2プロセシング」(1997年業界発表)であり、これらを基にデジタル信号フォーマットを最大24ビット/192kHzに拡張する 「EXTENDED-K2プロセシングVer2.0」(99年業界発表)を開発した。 これらはDVD時代を迎えたものの、20世紀最大の音楽遺産とも言えるCDのさらなる感動を蘇らすために開発したもので、音楽本来のもつなめらかさ、 余韻、臨場感の再現性向上を狙ったものである。
 20世紀もいよいよ終わりをつげようとした2000年12月、 今までHi-Fi音楽のK2高音質化要素技術で養ったノウハウをベースにして圧縮音楽にも対応させたCCコンバーターCompression Compensative Converter)を開発した。 デジタルネットワーク時代における新技術、新ビジネスとして発表後、CEATEC 2001、Audio EXP0 2001等で高音質化の看板技術として訴求するなど、 当社の代表的なコア技術の一つとして挙げられるまでに成長した。デジタル信号処理にソフト、ハードが融合すると感動再現に磨きがかかる。 これこそ当社のお家芸として大切にしたい。
◇ディスクメディアにおける高音質化・高画質化
 DVDが急成長を遂げる中、DVDのさらなる高音質化、高画質化を目指して開発したのが 「DVD-K2」である。 (2001年7月業界発表)この技術は「K2インタフェース」を「DVDレーザーカッティング」に応用展開したもので、開発にあたってはレーザー記録信号の超高速化・高精度化を実現、 ナノ秒単位の追求が実を結んだ。
 2001年6月、「DVD-K2」のON、OFF試作盤があがり、マスタリングセンターにてビクターエンタテイメント、ビデオテック、メディアカンパニーの関係者が見守る中、 視聴会がおこなわれた。従来盤から「DVD-K2」試作盤に替えて再生した瞬間「新しい文化の夜明けを感じた」と思わず声が出た。音も画もまるで異次元の世界であった。 こうして見るとAudio Visualにおけるデジタル進化は、飛躍的な革新を与えてくれた反面、デジタルがゆえに人間の五感にとっての弊害も出ていたのではなかろうか。 人間の五感に対して優しさを取り戻し、感動を蘇らすことでデジタル革新も真に活かされると考えている。
 メディアカンパニーでは「DVD-K2」技術を武器にDVDプレス受注拡大を推進しており、メ ディア事業に於いても高付加価値差別化技術の必要性を強く感じた。 ビクターエンタテインメントもDVDビデオVIBC-6で初搭載商品化、DVDオーディオソフトに「DVD-K2」ロゴを付けて発売中である。

(5)むすび
 K2開発では、イノベーションをもたらす技術と商品に結びつける技術を必要としたが、必ず先に思いがあり、商品をこうしたい、こうありたいという信念があり、 そして何よりもそれを貫き通す根気と勇気により仲間も増え道を開くことができた。
 新しい提案、開発には周囲の雑音、摩擦は付き物である。苦労した分だけ力が付き、色々な経験をした分だけ知恵と工夫(創意)が付いた。これらは多くの特許を生む活力となり、 デジタル&ネットワーク時代のK2コア技術へと進化していった。
 その応用展開は国内外のハード/ソフト/メディアの多種多面にわたり、デジタルコンテンツの高品位化を意味するロゴマークを13種生み、 たえず原音再生を追及する「音のビクター」としての地位向上、業績向上に寄与できた。
 当社はハードとソフトを併せ持つ世界的にも数少ない企業である。K2はそのハードとソフ ト更にはオーディオとビジュアルにまたがる技術である。 このK2技術がもたらす相乗効果ははかりきれないものがあると確信する。
 将来に向けた抱負としてはハード、ソフトの高品位化路線をさらに進化させ、デジタルコンテンツの感動を一段と深めたい。夢や感動を世界中に伝え、 世界中の人々が感動した分だけ会社を発展させたいと願うものである。 
( 桑岡 俊治 記 )